由比正雪350回忌記念作品 台本制作塩坂高男  語り脚本白井勝文

           憂国の軍学 由比正雪  

        正雪の静岡新聞記事   正雪の史跡スライドショー

        台詞入り主題曲  花の次郎長三人衆  ああ梶原景時公  ああ信康  青葉の笛 
            
 

駿州の紺屋の生まれ,由比正雪は,17才の時、シャムヘ渡った山田長政が、反乱軍を鎮圧した功績
によって国王から
,大守に任ぜられた偉業を知り,胸が張り裂けんばかりの感動を覚えた。これが
切っ掛となり、多情多感な青年
,由比正雪は、元和8(1622)大きな夢を抱いて,江戸へ飛び出し、
親類の菓子屋で奉公を始めた。

正雪は商用に託して,諸国の武家屋敷に出人りをしていたが、その様ないきさっから次第に武芸
にも
,関心を持つようになっていった。
当時幕府は,大阪方の浪人達を厳しく,取り締まっていたが、不安げにうろつく多くの浪人達に同
情を抱き正雪は
,幕府の政策に疑念を持ち始めるのであった。
元々正雪の志は,山田長政に憧れ軍学者になる事であり、その為,仕事にも身が入らずとうとう
菓子屋を
,やめる事になってしまった。
その後正雪は直ちに,志をかなえるべく,楠不伝,と言う軍学者の道場に、入門するのであった。
正雪は内弟子として入り込み、師匠の信任を得るため人一倍
,努力した。
その甲斐あってか早々に師匠の,代稽古を努めるようになり、更に数年後には道場を継ぎ,念願の
軍学者
,となったのである。
そして数年の歳月が流れていった。一流軍学者
,との評判も立ち日増しに、大勢の聴講者が,押し
掛けるようになった。しかし幕府は、多くの聴衆が集まる事に懸念を抱き
,隠密を門弟として送
り込むなど
,警戒し始めるのであった。

正雪が江戸に出て,一人前の軍学者になるまで,後ろ盾となって目をかけてくれた善き,理解者がい
た・それは
,板倉重昌であった。
重昌は,将軍を補佐する最高機関である幕閣を勤めており、駿府城にいた当時から正雪の少年時代
を良く
,知っていたからである。
だが重昌は,寛永15(1638)年,島原の乱で、幕閣内での勢力抗争の煽りを受け,無念の死をと
げるはめとなってしまった。

正雪はその事に大きな衝撃を受け,腹の底から込み上げる怒りを覚えた。この事件を機に重昌の、
無念、の死を弔うかの様に正雪は幕府を、批判し始めるのであった。

その頃の,幕府の政策は,関ケ原の合戦以来,外様大名の容赦ない,取り潰し政策であった。 その,
取り潰しによって
,40万人とも50万人とも言われた浪人達は,巷にあふれる。
ところが、これら大量の浪人に対しても幕府は,諸大名が浪人を集めて,勢力を強める事を恐れ,
それ故
,新しく浪人を召し抱える事を厳しく,禁じていた。
だが,この様な状況下にあってもあえて,浪人を召し抱えるなど幕府に対して,逆らう大名がいた,
それは
,徳川御三家の一人,紀州大納言頼宣であった。
また,頼宣は、こうした浪人達に同情し,幕府を批判している正雪に、特別な好意を寄せていた,大名
でもあった。


頼宣が,幕府に逆らうのは,それなりの訳がある。曾て頼宣は,駿府城の城主として就任したが,僅か
三年で
,紀伊の和歌山城に移された。大御所政治の中心地であった駿府を,追い出され、田舎の和歌山
,転居させられたからである。頼宣は憤まんやるかたない思いを持っていた。
この,徳川直系に対する処遇の不満は,春日局を中心に形成されていた,松平信綱,酒井忠勝,阿部忠秋
などの
,若手幕閣らに向けられ,彼らを批判する,言動となっていった。
更に頼宣が,徳川御三家の一人である事から皆,神経を尖らせた。その為,知恵伊豆と,異名をとっている
松平信綱は、煙たい存在の頼宣を抑える妙案を、密かに
,練っていた。
その策とは、幕府を批判している正雪に,隠密を使って事を起こさせ,正雪と関係している頼宣を封じ
込める
,と言う企みであった。
  
一方,正雪に同調し,好意を寄せている紀州大納言頼宣は、そのよしみから,しばしば御前にも正雪を、
招いていたのであった。

今日も,広大な紀州屋敷の一室で正雪は、近頃の若手幕閣達の動きに懸念を持ち,それとなく頼宣候に
話を
,持ち掛けていた。
『紀州様、今,天下の形勢を御覧になられ、いか様に思われますか』
『天下の形勢とは,どう言うことじゃ』
『近頃の,若手幕閣達の勢力の事で御座います。先頃,家光候は,紀州家の剣術と槍の技を御覧になられ
たと思いますが』

『うむ……そう言えば、いたく感心されて,おられたようで御座ったが』
『紀州様がお抱えする,武術の技を、家光候はなぜ,御覧になられたのでしょうか』
『わが紀州家の心を疑って,武術の力量を探るために、そのようなことをされたと,貴公は言いたい
のだな』

『いや,疑いではなく、既にその恐れがあるとの懸念から偵察に、来られたものと思われます』
『すると、牽制しにか!
『さように存じます』
『わしが思うには、家光候が自ら,わが家の武術を見定めに来られたのは,恐らく、側近の考えではな
いかと
,思うのだが』
『それがしも、さように存じあげます』
『やはりそう思われるか。家光候を使い、それとなく我が家を偵察しに,来させるとは,側近達の陰の
力を更に
,強くしている証拠だな』
『多分そのように,思われます』
『う一ん、徳川の直系を汲む者にとって、幕府そのものが,手の届かぬものとなって行くとは、天下
はいささか淋しい形勢に
,なりつつあるようじゃ』
『それがしもかねてより,幕府の政策に対しては憂いを,持っておりまする。巷に溢れる浪人達を救う
為にも
,そろそろ事を起こし改革を訴える時期が,参ったようで御座います』
『ほっほう,その様な企みを持っておられると,申されるのか、しからば陰ながら』
『はっ,力強きお言葉,かたじけのう御座います,つきましては,御三家の重みはまだまだ通用するはず
で御座います。それ故
,何彼と便宜の為,紀州様の御印の力を,お貸し戴きとう存じます』     
『さようか、だが扱い如何によっては,我が藩の命にも関わる代物故扱いには,くれぐれも注意下されよ』
と言うと
,頼宣候はおもむろに文箱から,1枚の,虎の印が押してある白紙を,取り出した。
『有り難きお志、無駄には致しませぬ。また御迷惑をかけませぬ事を,お誓い申しあげます』
  改まって正雪はお礼を述べたが
,頼宣候はただ大きくうなずき,微笑んでいた。

幕府にとって最も恐ろしいのは、紀州大納言頼宣と
,関係を持つと見られている正雪の,影響力である。
その為正雪の動向は逐次
,道場に送り込まれていた隠密から,幕閣達に報告され,正雪に対する幕府の圧
力は日増しに
,厳しさを増していった。
だが正雪は,この圧力に屈する事なく更に,抗議の行動へと反発を,強めていくのであった。
折しも正雪が,抗議行動を決意した時,叛乱の協力者となる,丸橋忠弥,と言う人物と出会うのであった。
だがこれは
,松平信綱が仕組んだ,,なのである。

丸橋忠弥の父は,四国の覇者,長宗我部盛親であるが盛親は曾て、大阪冬の陣の時に,今は北町奉行と
なっている石谷将監に
,指を斬り落とされなぶり殺しにされた。
その為忠弥は,石谷将監に仇を討とうと強い,決意を持っていた。松平信綱はそこに目を付け,北町奉行
の石谷に
,恨みを晴らそうとする忠弥と、幕府に,批判を強めている正雪とを,結び付ける事で、
『きっと何か事を起こすであろう』と
,目算していたのであった。
そこで信綱は、隠密として送り込んでいた奥村八郎衛門に、それとなく丸橋忠弥に正雪を引き会わせ
るよう
,指示した。

ある日奥村は,本郷お茶の水にある丸橋道場に正雪を案内し,宝蔵院流の槍の師範である丸橋忠弥に引き
会わせた。

『それがしは由比正雪と申す者、軍学の極めを志しておる故、貴殿一族の,戦の歴史に強い,興味をもっ
ておりまする、勉学の為お聴かせ戴けませぬか』

忠弥も、正雪の依頼に快く応じ,話しを聴かせた。最初は,長宗我部一族の起こりや歴史などを語り,そし
,感慨をこめながら数々の武勇伝を語っていった。だが大阪冬の陣の話になると,忠弥の顔面が紅潮し
始め
,語気は一気に強い口調となった。
『父上の最後を思うと、武士として不名誉な辱めであり,憤は今でも,忘れは致しませぬ、父上を捕らえ
た北町奉行の
,石谷将監めを仇として只、一突きにするまでだ。それがしの悲願ご理解下され』
『忠弥殿、貴殿の心中察するに,余りまする、だが,一奉行を刺したとて,個人的な怨みの仇討ちに,過ぎ
ぬのでは』

『なに!四百年の誉れある,我が家の無念を,単なる個人的な怨みと申されるのか。正雪殿,徳川の泰平が,
悪いのだ、戦国の世になれば
,個人的な怨みなど御座るまい』
『なるほど御尤もな、そう言えば,徳川の泰平を守り過ぎるあまり、大名の取り潰しによって浪人となっ
た武士達が
,どれ程おることか、それを思うと我も怒りが』
『正雪殿もそう思われるか、ならば,互いの怒りを合わせ事を起こせば、浪人達を苦しめている幕府の悪
政も
,改革することが,きっと出来ようぞ』
二人は意気統合し,その後も親交を,深めていくのであった。そしていつしか二人の怒りは,叛乱の構想へ
と変わっていきその気運は
,急速に高まっていった。
                  

さっそく,正雪と丸橋忠弥は叛乱計画を,立てた。
江戸においてはまず,江戸城に蓄えてある火薬を一騎に,爆発させる。
それを合図に闇にまぎれて市内の、数十箇所に火を放ち市中を,火の海にする。
この,火の手を見るや,丸橋忠弥の一団は、葵の提灯を掲げ江戸城内に,突入する。
そして,将軍の神輿を出させ,そのまま将軍を拉致して裏街道より,久能山へ急行する。
京都においては,江戸の情報を得るや,二条城を乗っ取る。
大阪では,京都での行動を合図に市中を焼き討ちし、大阪城を占拠する。
また,駿府の正雪一行は,久能山を襲撃し,金庫にある金銀を押さえ,軍用に当てる。
更に,駿府城を落として東海道を分断し、四方に号令を発する形で天下を定める。
これらの決起行動には、集めた三千の,浪人達が一挙に動く,と言う計画であった。
しかし、正雪と忠弥は不覚にも、松平信綱が張り巡らしていた諜報網から,これ等の計画は全て,報告
されていた事には
,気付いていなかった。

慶安4(1651),721日未明,遂に、その計画は決行された。
正雪は江戸を出発し駿府に同かった。従う者は総勢、11人である。何か事があれば,紀州大納言から
賜った書状が役立つ、正雪は自信を持っての
,旅立であった。
正雪が江戸を出ると丸橋忠弥は叛乱の,準備に取り掛かった、市内の攻め口は14箇所と定め,三千の,
人達の内
,14隊を精鋭部隊とし,残り八百人は遊軍とした。
そして、計画万端怠りなく忠弥と浪人達は,決起の日を,待っていた。
だが、正雪一行が江戸を発つと直ちに幕府は、叛乱の押さえにかかった。
まずは北町奉行の同心24人は、丸橋道場に向かった。そして表と裏に分かれ『火事だあ,火事だあ』と
叫び立て、
,忠弥があわてて飛び出したところをあっと言う間に,取り押さえた。続いて,正雪の道場も
手人れを受け
30人余りが捕らえられこれで叛乱の要所は全て押さえられた。この様に江戸での叛乱
事前に漏れていた情報によりあっけなく未遂に終わってしまったのである。

一方,駿府へ向かった正雪の一向が,紀州藩の定宿となっている梅屋に,わらじを脱いだのは725日で
あったが夕刻には早くも、梅屋町の同心に発見されていた。

駿府城代の大久保忠成は、幕府から早打ちで送られてきた書状を受け取るや,主だった者を集め対応策
,打ち合わせた。書状には,正雪一行の人相書きと,叛乱計画の内容が記されており更に,『正雪は必ず
生け捕りにせよ』と
,付け加えられていた。
その為城代と町奉行は、生け捕り策に知恵を絞った。
梅屋に押し入っての生け捕りではこちら側に,かなりの犠牲者を出てしまう。
そこで,江戸より手傷を負った手配者を取調べる,と言う理由で外に,誘き出す事にした。
そして,与力を使わし。
『江戸より手負いの者がある故、旅人の手傷を改めている。奉行所まで参上されたし』
戸口越しに中から返事があった。
『我らは紀州家の家臣で御座る、手傷あらためならばこの宿で,お調べ願いたい』
『いや、紀州様の家臣に検視を差し向けては,矢礼かと存じあげる、まげて御出頭願いたい』
与力は重ねて,出頭する様申し入れたが、聞き入れられなかった。
宵のうちからかがり火が焚かれ、与力達は夜通し見張りを続け,間も無く,夜明けを迎えようとしている
『これは只ならぬ事である,たぶん江戸の叛乱は失敗しこの計画も,見破られている事であろう』
と正雪は直感的に悟った。
『再度お頼み申す、奉行所へ参上されたし,なぜにお断りめされるのか』
『それほどまでの仰せなら後ほど参上つかまつろう、今しばらくお待ち下され』
『分かり申した。ならばお待ち致そう』
『相手は我らを,生け捕りにするつもりだ。生け捕りにされ厳しい拷問を受け,生き恥をさらさぬ為にも、
ここに至っては
,自害するしか我らに,残された道はない』
『正雪殿、このままでは犬死にではないか。せめてひと太刀浴びせねば』そうだ、そうだ
『いや,待たれよ,この場に及んで何人かを,打ち斬ったところで,無益と言うものであろうそれよりも潔
く果てようではないか。我も無念ではあるが
,この様になった事は総べて我が、不徳の致すところである。
皆の者には
,詫びても詫び切れぬ想いがただ,心残りとなっている』
『正雪殿、無念で御座る。正雪殿オー、正雪殿オー、』
一同が静まり返る中正雪は,筆を取り出した。
この叛乱が断じて己れの,野心によるものではなかった事。大名の取り潰しによって出た,多くの浪人達
を憂い
,御政道を正さんが為に,起こした事。紀州家の家臣を名乗ったが、この件については頼宣候は,
預り知らぬ事。これ等の趣旨を遺書に
,したためた。そして正雪は,最後の心境を皆に,告げた。

『今は戦もなくなり泰平の世ではあるが、しかし一方では,巷には浪人が溢れ,大名も次々と潰されて
いく嘆かわしい
,世の中でもある、心ある者ならば必ず,悲しく思うことであろう。我はこれから,冥土
へ旅立つが、下々が憂える事のない
,天下長久の御政道がなされん事を、心に留めて参りますぞ』
と言うと正雪は、辞世の句を書きしるした。
『秋はただ,なれし世にさえもの憂きに,長き門出の,心とどむな、長き門出の,心とどむな』
東の空は明るみ,かがり火が消え失せる頃、梅屋の奥からすさまじい,うめき声と刀の切り裂く音が,
響いた。与力同心らは梅屋に突人し
,急いよく障子を,蹴破った。
そこで,まず見たものは,血刀を下げて呆然と立っている増上寺の僧,廓然の姿だった。
足元には鮮血が飛び散り、畳の縁に沿って流れた,血の海の中に首のない、九つの死体が,横たわっていた。
廓然と下郎の和田助だけが生け捕りとなって,此の大捕物は終る。
時に正雪47,であった。

正雪が自決したのち,遺品の中から紀州候の書状がみつかった。その為,宣頼候は十年間、和歌山城へ
帰る事を許されず江戸で
,拘束をうける事となった。こうして,煙たい頼宣の、封じ込めを企んだ松平
信綱は蔭で
,にんまりと,ほくそ笑むのであった。

この叛乱では、直接に関わった者だけでなく,家族や親類を含め総勢,三百人程が刑場の雫と消える,
大事件となったのである。

この事件の後幕府は、正雪の遺書を教訓とし各藩に,積極的に浪人を召し抱えるよう,浪人救済に乗り
出した。更に
,大名家の取り潰しを減らすため,末期の養子を許可した。
これによってお家断絶の事態は急速に,減っていくのであった。
この様に幕府の政策を大きく,改革させたのは、この叛乱が正雪の野心から,起こされたものではなく、
国を憂い御政道正さんと
,死をもって訴えた義士の,抗議行動であったからである。だが,正雪は
『幕府の転覆を企てた反逆者』と言う汚名を着せられその真相は
,闇の中に葬られてしまった。
しかし今,こうしてその真相は明かされ、憂国の軍学者,由比正雪の真実の姿がここに、蘇って来たの
である。


慶安事件以来350年、由比本陣前の紺屋の奥でひっそりと,供養をされてきた正雪の、五輸の塔には
線香の
,煙りが今でも漂っている。

平成201214


    
    <静岡市法人会口演>           <引佐町自然休養村つみくさ>
       H14年10月7日                 (H14年1月13日)

 
正雪の首塚の在る静岡市菩提樹院        正雪の首塚


 
正雪の位牌を奉ってある来迎院       位牌を奉っているお堂
                           
  
  
    静岡市弥勒にある正雪の石碑           <由比中学校文化講演会リンク(H14年11月19日)
                                             
             
台本制作 蒲原町文化財保護審議会会長 塩坂高男
                     語り脚本 津軽三味線 白井勝文


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